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'06/10/31: 明るい社会づくり運動
明るい社会づくり運動 目黒の会
の総会と講演会が、10月29日午後にありました。
捨て看板の撤去・清掃・落書き消し
など、
街の美化活動や教育講演会
を開いて、目黒区内で活動している団体です。結局のところ
ボランティア団体
です。
会長が交代し、
つづき秀行
氏が新しい会長に就任しました。つづき氏は現在目黒区議で、私と同じ会派に属しています。
(つづき氏は区立五中・東山中で教頭、区立九中・区立十一中で校長を歴任し、その後、区議会議員になって12年目となります。来年の統一地方選挙では出馬せず引退する意向です。)
この会には目黒区議は何人もが関わっています。総会・講演会で見かけたのは、下岡こうじ区議、二ノ宮啓吉区議、伊藤よしあき区議などでした。昨年の総会では伊藤ゆう都議なども来ていました。こういう区内活動としてありがたいものに党派の差はありません。
【基本姿勢】
1.みんな幸福にしたいという純粋な優しい心を持ち、社会の一隅を照らすことにあります。
2.実戦こそが尊く、どんな優しい心も、どんな立派な考えも、実戦なくしてその真価はありません。私共、本運動を推進する者が、この使命を正しく理解し“奉仕の心と、笑顔”で実践し、この運動を長く存続するよう努めます。
第二部の講演会は、「私の被爆体験」として池田精子氏による講演がありました。自分のメモから話を再構成しました。
当事、広島市は35万人(外国人労働者2万人、軍人2万人含む)がいた。そのうち29万人は現在までに亡くなた。これは無差別虐殺そのものだ。
原爆の被災地はおおよそ半径4km。原爆投下当事、池田氏は爆心地から1.5km離れたところで、屋外作業をしていた。
核兵器は空中炸裂するため屋外では遮るものもない。その被害は、熱線、爆風、放射線の3種類に分けられる。
熱線。爆発中心では数百万度に及び、地上では3000度ほどだった。鉄は1500度で、ガラスは800度で溶けることから考えれば、その被害のほどは想像がつくだろう。例えば原爆ドームでは150人が労働していたが、人間はすべて蒸発した。爆心地から500mあたりでは炭化していた。1.5km離れていた池田氏は3度の(肉から骨に達する)ヤケドを負った。
爆風。最大瞬間風速440m。戦後台風の最大級が風速85mである。その瞬間風速では木造建築物は軒並み倒壊する。
放射線、自然界に普通に存在し、人体に害がないレベルは1mmシーベルト。広島の原爆ではその1700倍もの放射線が発生した。これは血小板などの細胞レベルから破壊される。
被爆後、重傷者は水を欲した。多くの人が川に入り、むさぼるように水を飲んだ。そしてショック死して沈んでいった。池田氏は飲む気になれなかった。今にして思えばそれがよかったのだろう。
20kmほど離れた自宅に向かった。家は倒壊し、街並みもないので、いつも越えてきていた東にある山を目印に歩いていった。
助けてくれ、助けてくれと言う声が倒壊した家の中や道ばたから聞こえてくるが、それに耳をふさぐようにして逃げた。
山の上から見たら、街が亡くなっていた。
山の裏側では学徒が逃げ回っていた。当事8521名がいたが、6300名は亡くなった。苦痛の声が聞こえてくる。たいていは声がやんだ時には亡くなっていた。
池田氏が家に帰り着いたとき、すでに目も口もほとんど開かない状態だった。あれで生きられたら奇跡だと言われた。しかし父も母もあきらめず、ずっと看病してくれた。
爆発から3日目に、近所の友達が帰ってきた。彼女はヤケドもなく、きれいなままだった。人々は良かったねえ、と言っていた。
しかし1ヶ月後、池田氏がなんとか起きあがれるぐらいになった頃、彼女は身体不調を訴えた。毛がバッサリと抜け、胸から腹がパンパンに張っていた。血を吐きながら「死にたくない」「私、悪いことしてないよね」と言いながら、死んでいった。
彼女は被爆した土地で3日過ごしたことで、残留放射能を浴びつづけ、急性放射能症になったのだ。
被爆した身内を捜して、皆が歩き回った。肉親にとってかけがえのない人々を捜していた。しかし、みつからない。ボロボロで分からない。ケロイドになった皮膚、炭化した身体では、区別がつかない。もし肉親が通りかかっても声をかけることすらできなかった人もいただろう。
夏場ということもあり2日もすればハエがたかる。3日を過ぎれば生きたままウジがわく。そして、多くの人が亡くなり、トラックに積まれて運ばれていった。油をかけられてまとめて焼かれた。
なんとか歩けるようになって学校に行ったら、アカオニが来たと言われた。まっすぐ家に帰り、それまで見ていなかった自分の姿を、鏡を捜し出して、見た。顔中が真っ赤でケロイドが顎にくっついている。左の口はめくれて唾液が漏れている。ひどい顔だった。
それまで戦争は正しいと言われていた。子どもたちはみな、戦争に勝つまではガマンと頑張っていた。その結果が、これだった。
学校に行きたくない。死ねば良かった。強く感じた。そして心がひねくれていった。
ある日、縁側で父と祖父が話していた。どうせ私の悪口を言っているのだろうと思いながら聞き耳を立てた。
空襲が来たら、母はほかの兄弟を連れて山に逃げることになっていた。父は、そんな母に「精子は俺が責任持って守るから、安心して逃げろ」と言っていた。
しかし父は「空襲が来たら、精子を連れては逃げられない。だからその時は一緒に死のうと覚悟していた」と語った。そして、続けた。「精子は運が良かった。生きていればなんでもできる。しんだら、なんにもならない。」
その時から、前向きに生きると決めた。憎しみは憎しみでは消せない。
その後、何度も手術を受けて、今のようになった。初めは何度も失敗した。ある米国医師の元で修行した日本人医師の施術で、なんとか成功した。しかしそれも医師は「100%成功しました」と言ったので、喜んで包帯を取ったらガッカリした。私はただ「元に戻りたい」だけだったが、医学では元に戻すことはできない。手術がどんなに成功しても、それは受けた側から見たら、足りない。
今でも思う。歩いて逃げていたとき、友だちも、断末魔の中にいたのではないか。頭痛がすれば白血病を疑い、明日にも死ぬのではないかと怯えつづける。それが「被爆した」ということだ。
戦争廃絶、核兵器廃絶、池田氏はそれを説き続ける。戦争は人間を狂わせる。殺すことが当たり前になる。戦争は、自分以外の、親兄弟友人すべても奪う。
長崎に原爆を落とした乗組員が先日、テレビで言っていた。広島の原爆は今の核兵器に比べたら花火だ。
広島は、生命の尊厳を守るために説く。核戦争に勝者も敗者もない。
ある海軍軍人さんと、講演活動を通して知り合った。爆心地120mのところに自宅があり、彼はその日、配給を受けるために少し離れたところまで行っていた。
銀めし(白米おにぎり)2つをなんとか手に入れて、妻と4人の子どもで分けようと思っていた帰り道で爆発があった。まるで自分の家の真上で起きたような爆発だった。
急いで家に帰る帰り道、潰されかけた家から上半身を出して助けを求める老人がいた。今にして思えばなんでそんな力が出たかわからないが、なんとか材木をどけて助け出した。しかしその下半身はすでに潰れていた。
急いでいたので立ち去ろうとするが、老人はスソをつかんで離さない。「動けないから、治療できるところまで連れてってくれ」と必死で懇願する。しかし「私の所管じゃないんだ。もうすぐ管轄のものが来るから」と振り切った。その背中に「逃げるのか」と静かに強い声が浴びせられた。振り向くと老人がしっかりした視線で自分をにらみつけていた。逃げるように、立ち去った。
家に帰り着くと、妻は生きていた。子どもは、と聞くと、外で遊んでいたらしい。塀と家の間を見ると、そこには炭化した足があった。どの子かは分からないが、4人のうちの誰かだろう。丁寧に、崩れないように布にくるんだ。一緒にくるんだ土の方が重かった。
平和を守るために必要なのは人間の痛みを分かる心を持つことだ。命を大切にしてほしい。
核兵器は人間が作った。戦争も同じだ。ならば人間の英知を集めれば廃絶できるのではないか。できないはずがない。
被爆者は広島・長崎だけではない。タヒチなどの地下核実験でも影響は出ている。粘板岩でできた地層でおこなった実験で、安全なはずの魚が被爆している。魚を食べた住人が被爆している。
核兵器があるのは、鋭利な刃が頭上に吊されているようなものだ。子孫の繁栄を望むなら、廃絶せねばならない。
私は
戦争が嫌い
です。
だから核論議というセリフを言う愚かな政治家も嫌いです。
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長崎原爆忌 : Epsiloncafe
- 2006/10/31 23:11
北九州が舞台になった原爆を題材にした拙著 児童向け小説「ぼくたちの空とポポの木
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明るい社会づくり運動 目黒の会の総会と講演会が、10月29日午後にありました。捨て看板の撤去・清掃・落書き消しなど、街の美化活動や教育講演会を開いて、目黒区内で活動している団体です。結局のところボランティア団体です。
会長が交代し、つづき秀行氏が新しい会長に就任しました。つづき氏は現在目黒区議で、私と同じ会派に属しています。
(つづき氏は区立五中・東山中で教頭、区立九中・区立十一中で校長を歴任し、その後、区議会議員になって12年目となります。来年の統一地方選挙では出馬せず引退する意向です。)
この会には目黒区議は何人もが関わっています。総会・講演会で見かけたのは、下岡こうじ区議、二ノ宮啓吉区議、伊藤よしあき区議などでした。昨年の総会では伊藤ゆう都議なども来ていました。こういう区内活動としてありがたいものに党派の差はありません。
【基本姿勢】
1.みんな幸福にしたいという純粋な優しい心を持ち、社会の一隅を照らすことにあります。
2.実戦こそが尊く、どんな優しい心も、どんな立派な考えも、実戦なくしてその真価はありません。私共、本運動を推進する者が、この使命を正しく理解し“奉仕の心と、笑顔”で実践し、この運動を長く存続するよう努めます。
第二部の講演会は、「私の被爆体験」として池田精子氏による講演がありました。自分のメモから話を再構成しました。
当事、広島市は35万人(外国人労働者2万人、軍人2万人含む)がいた。そのうち29万人は現在までに亡くなた。これは無差別虐殺そのものだ。
原爆の被災地はおおよそ半径4km。原爆投下当事、池田氏は爆心地から1.5km離れたところで、屋外作業をしていた。
核兵器は空中炸裂するため屋外では遮るものもない。その被害は、熱線、爆風、放射線の3種類に分けられる。
熱線。爆発中心では数百万度に及び、地上では3000度ほどだった。鉄は1500度で、ガラスは800度で溶けることから考えれば、その被害のほどは想像がつくだろう。例えば原爆ドームでは150人が労働していたが、人間はすべて蒸発した。爆心地から500mあたりでは炭化していた。1.5km離れていた池田氏は3度の(肉から骨に達する)ヤケドを負った。
爆風。最大瞬間風速440m。戦後台風の最大級が風速85mである。その瞬間風速では木造建築物は軒並み倒壊する。
放射線、自然界に普通に存在し、人体に害がないレベルは1mmシーベルト。広島の原爆ではその1700倍もの放射線が発生した。これは血小板などの細胞レベルから破壊される。
被爆後、重傷者は水を欲した。多くの人が川に入り、むさぼるように水を飲んだ。そしてショック死して沈んでいった。池田氏は飲む気になれなかった。今にして思えばそれがよかったのだろう。
20kmほど離れた自宅に向かった。家は倒壊し、街並みもないので、いつも越えてきていた東にある山を目印に歩いていった。
助けてくれ、助けてくれと言う声が倒壊した家の中や道ばたから聞こえてくるが、それに耳をふさぐようにして逃げた。
山の上から見たら、街が亡くなっていた。
山の裏側では学徒が逃げ回っていた。当事8521名がいたが、6300名は亡くなった。苦痛の声が聞こえてくる。たいていは声がやんだ時には亡くなっていた。
池田氏が家に帰り着いたとき、すでに目も口もほとんど開かない状態だった。あれで生きられたら奇跡だと言われた。しかし父も母もあきらめず、ずっと看病してくれた。
爆発から3日目に、近所の友達が帰ってきた。彼女はヤケドもなく、きれいなままだった。人々は良かったねえ、と言っていた。
しかし1ヶ月後、池田氏がなんとか起きあがれるぐらいになった頃、彼女は身体不調を訴えた。毛がバッサリと抜け、胸から腹がパンパンに張っていた。血を吐きながら「死にたくない」「私、悪いことしてないよね」と言いながら、死んでいった。
彼女は被爆した土地で3日過ごしたことで、残留放射能を浴びつづけ、急性放射能症になったのだ。
被爆した身内を捜して、皆が歩き回った。肉親にとってかけがえのない人々を捜していた。しかし、みつからない。ボロボロで分からない。ケロイドになった皮膚、炭化した身体では、区別がつかない。もし肉親が通りかかっても声をかけることすらできなかった人もいただろう。
夏場ということもあり2日もすればハエがたかる。3日を過ぎれば生きたままウジがわく。そして、多くの人が亡くなり、トラックに積まれて運ばれていった。油をかけられてまとめて焼かれた。
なんとか歩けるようになって学校に行ったら、アカオニが来たと言われた。まっすぐ家に帰り、それまで見ていなかった自分の姿を、鏡を捜し出して、見た。顔中が真っ赤でケロイドが顎にくっついている。左の口はめくれて唾液が漏れている。ひどい顔だった。
それまで戦争は正しいと言われていた。子どもたちはみな、戦争に勝つまではガマンと頑張っていた。その結果が、これだった。
学校に行きたくない。死ねば良かった。強く感じた。そして心がひねくれていった。
ある日、縁側で父と祖父が話していた。どうせ私の悪口を言っているのだろうと思いながら聞き耳を立てた。
空襲が来たら、母はほかの兄弟を連れて山に逃げることになっていた。父は、そんな母に「精子は俺が責任持って守るから、安心して逃げろ」と言っていた。
しかし父は「空襲が来たら、精子を連れては逃げられない。だからその時は一緒に死のうと覚悟していた」と語った。そして、続けた。「精子は運が良かった。生きていればなんでもできる。しんだら、なんにもならない。」
その時から、前向きに生きると決めた。憎しみは憎しみでは消せない。
その後、何度も手術を受けて、今のようになった。初めは何度も失敗した。ある米国医師の元で修行した日本人医師の施術で、なんとか成功した。しかしそれも医師は「100%成功しました」と言ったので、喜んで包帯を取ったらガッカリした。私はただ「元に戻りたい」だけだったが、医学では元に戻すことはできない。手術がどんなに成功しても、それは受けた側から見たら、足りない。
今でも思う。歩いて逃げていたとき、友だちも、断末魔の中にいたのではないか。頭痛がすれば白血病を疑い、明日にも死ぬのではないかと怯えつづける。それが「被爆した」ということだ。
戦争廃絶、核兵器廃絶、池田氏はそれを説き続ける。戦争は人間を狂わせる。殺すことが当たり前になる。戦争は、自分以外の、親兄弟友人すべても奪う。
長崎に原爆を落とした乗組員が先日、テレビで言っていた。広島の原爆は今の核兵器に比べたら花火だ。
広島は、生命の尊厳を守るために説く。核戦争に勝者も敗者もない。
ある海軍軍人さんと、講演活動を通して知り合った。爆心地120mのところに自宅があり、彼はその日、配給を受けるために少し離れたところまで行っていた。
銀めし(白米おにぎり)2つをなんとか手に入れて、妻と4人の子どもで分けようと思っていた帰り道で爆発があった。まるで自分の家の真上で起きたような爆発だった。
急いで家に帰る帰り道、潰されかけた家から上半身を出して助けを求める老人がいた。今にして思えばなんでそんな力が出たかわからないが、なんとか材木をどけて助け出した。しかしその下半身はすでに潰れていた。
急いでいたので立ち去ろうとするが、老人はスソをつかんで離さない。「動けないから、治療できるところまで連れてってくれ」と必死で懇願する。しかし「私の所管じゃないんだ。もうすぐ管轄のものが来るから」と振り切った。その背中に「逃げるのか」と静かに強い声が浴びせられた。振り向くと老人がしっかりした視線で自分をにらみつけていた。逃げるように、立ち去った。
家に帰り着くと、妻は生きていた。子どもは、と聞くと、外で遊んでいたらしい。塀と家の間を見ると、そこには炭化した足があった。どの子かは分からないが、4人のうちの誰かだろう。丁寧に、崩れないように布にくるんだ。一緒にくるんだ土の方が重かった。
平和を守るために必要なのは人間の痛みを分かる心を持つことだ。命を大切にしてほしい。
核兵器は人間が作った。戦争も同じだ。ならば人間の英知を集めれば廃絶できるのではないか。できないはずがない。
被爆者は広島・長崎だけではない。タヒチなどの地下核実験でも影響は出ている。粘板岩でできた地層でおこなった実験で、安全なはずの魚が被爆している。魚を食べた住人が被爆している。
核兵器があるのは、鋭利な刃が頭上に吊されているようなものだ。子孫の繁栄を望むなら、廃絶せねばならない。
私は戦争が嫌いです。
だから核論議というセリフを言う愚かな政治家も嫌いです。